思い出づくり
彼が、私に想いを告げてくれて、私たちは両想いということを知った。
それをきっかけに私たちは恋人同士になった。それは、今よりちょっと前の話。
そこから親密になることはあっという間で。
ほぼ毎週、空いている時間があれば、二人で同じ時間を過ごし、忙しいときでも電話やSNSで胸がくすぐったくなるようなやりとりを交わす。
それが今の日常になっていた。
週末もいつものように二人でデート。
レストランで軽いランチを済ませ立ち上がり、ハクが差し出してくれた手を取り私たちは店を出る。
手をつなぎながら、先ほど食べたばかりのパスタの感想について、意見を交換しながら道を歩く。
恋人同士になってまだ間もないけれど、そんな日常がとても楽しかった。
でも……。
「楽しいならいいんじゃないですか。『でも』って、何の不満があるんです?」
それは、ハクの誕生日を間近に迎えた平日のある日のこと。
社内の打ち合わせで少しアイデアが煮詰まってしまったので、この件の担当者であるユイとカンヤ、そして社長である私の三人で、会社近くのカフェへ息抜きに訪れた。
そこで、ユイとカンヤから聞きたいとせがまれた、最近のハクとの日常話と、それに続くでもという接続詞の言葉に、ユイはストローを指でくるくると弄りながら尋ねてくる。
「不満とほどじゃないけれど……恋人同士としてそろそろ次のステップに進みたいなと思って」
「ぶはっっっ!!!!」
「やだちょっとカンヤ汚い。コーヒー吹き出さないでよ!」
私の言葉にカンヤは飲んでいたコーヒーを吹き出し、ユイの抗議も耳に入らないのか無言のまま、なんとも形容しがたい表情でこちらをまじまじと見てくる。
「どうしたの?」
「い、いや……えっと。いや。思ったより生々しい話じゃないか?」
「えっ。そうかな? 確かに、考えただけで恥ずかしい気持ちもあるし、自分でもちょっと大胆かなって思うけど」
(そこまで生々しい? 私から手を繋ごうとすることが?)
自分で言うのもなんだけれど、確かに私の恋愛偏差値はあまり高くない。恋人っていう関係は、私にとってハクが初めての人だ。
それでも、手を繋ぐ行為自体は彼と何度もしているし、手を繋いで歩くカップルや同性の友達同士なんて街中にもたくさんいる。
(そこまで強く意識する行為なのかな……?)
だから、カンヤの生々しいという感想に気持ちのピントが合わず、思わず首をかしげてしまう。
今までハクがぜんぶ私の気持ちに気付いて先回りしてくれた。
だから、せめて彼の誕生日をきっかけに、自分からも手を繋げるようにしたいと考えていることは私なりの決意だった。
「あ、あのなー……。ハクさんとお前とのアレコレとかオレに妄想させるなよ! ……させるなよ?」
「いやほんと、するなよ」
念押しに告げるカンヤに、ユイが呆れた様子で突っ込みをいれる。
「ちょっと、カンヤ。妄想とかしないでよ。私だって、誕生日のことを考えると恥ずかしいんだから」
私もユイに続けてカンヤへと言葉を重ねた。
今まで受け身で彼の愛情を受け取ることに慣れてしまっているから、私から積極的に手をつなぐなんて、とても勇気がいる行動だ。
でも……ハクが手を差し出してくれることが嬉しい。隣を同じ速度で歩いてくれることが嬉しい。
ハクが私を好きでいてくれるからこそ、それをしていることが分かっていることが、とても嬉しい。
(こんなに嬉しいって気持ちを受け取っていてばかりだから、私から積極的に手を繋ぐことでハクにも同じ気持ちを味わってもらえるんじゃないかなって)
だから私はこの胸をくすぐる甘酸っぱくて嬉しい気持ちがハクへと伝えられるよう、勇気を出すことに決めたんだ。
「でもね、恥ずかしがってたら恋人同士として先に進めないし、勇気を出して私から誘って仲を進めようと思うんだ」
「社長! 女性のほうから積極的になるって勇気がいることだって、私も思います。でもきっとそういうきっかけも大事なんだと思います!」
「ありがと、ユイ」
ユイの激励に、私も強くうなずき返した。カンヤはそれを見て深いため息を吐く。
「はぁ……。まあ、せいぜいハクさん相手に積極的に頑張れよ、セッ……」
「ふふっ。『自分から手をつなぐ』一大ミッションはちゃんと成功させてみせるよ!」
「……ティングがんばれ!!!」
何かいいかけていたカンヤが私の続く言葉を耳にしたその瞬間、言葉を溜めて応援の言葉を返してくれた。
そんな彼の様子を見て、私は口角を吊り上げて強い笑顔を向けた。
「ありがと、カンヤ。私、いまカンヤが下ネタ言い出すんじゃないかって、ちょっと焦っちゃったよ」
「……って、気づいてたのかよ!!!!!!!」
焦った様子でツッコミをいれるカンヤを、ユイは眉根を寄せ目を細め、明らかに蔑んだ色を乗せた目で見ていた。
小さく「ほんとバカ?」という声が聞こえた気がするのは、気のせいかどうかわからないけれど、彼女の表情は如実にその言葉をカンヤへと伝えていた。
それからも、日常は淡々と過ぎていく。
誕生日のことを考えると、緊張とともに胸が高鳴る。日々近づいてくるその日を自分でも楽しみにしながら、誕生日の当日を迎えた。
今日出かけるのは、市の中心部にある水族館。とても大きく、アジアでもトップクラスの規模を誇るから、一日をここで過ごすこともできるくらいの規模。
もちろん、この場所を選択したのは、私だ。
(……自分から手を繋ぐなら、やっぱりここがベストスポットじゃないかなあ)
水族館をのんびり歩いて、ハクにリラックスして欲しいという気持ちもある。
けれど、今日はもうひとつ、重大ミッション・私からハクの手を繋ぐというものがあるのだ。
そのためにはまず、歩く前提の場所であることがいちばん重要。
遊園地や動物園は、この暑い季節に屋外を歩いて手汗が気になるからぜったい!!! 却下。
普段、ハクと手を繋いで歩くときはそこまで手汗も気にしてないけれど、自分から初めてのときくらいは、万全の態勢で臨みたい。
(それが、私の乙女心の矜持だったり……大げさだけど)
屋内のショッピングモールは、せっかく手を繋いだとしても、気になった小物を手に取ったりとすぐ手を離してしまいそうなので、これも却下。
ということで、選んだのが水族館というわけで。
「思った以上にすごいな、ここ」
「うん……私も初めてだけど、本当にすごいね。海底トンネルって、こんな風になっているんだ」
海底トンネルは、地下へと歩く歩道で続いている。
雰囲気を楽しむため私たちは歩道を歩くことはせず、頭上を泳ぐサメを眺めながら、私はそっと横目で自然に下ろされている彼の手を見る。
(い、今なら繋げるよね?)
心の中でやる気を鼓舞し、手を伸ばそうとしたところ──。
「ん?」
私の目線と気迫に気付いたハクが、自ら手を繋ごうと自然な流れで私の手のひらに触れた。
「やっ……!」
彼の指先が私に触れた瞬間、思わず手を引っ込めてしまう。
(え、違う。嫌がってるみたいじゃない。こんなの……)
私から繋ごうとしていた決意が揺らぎそうで、思わず拒否反応を見せてしまった。
「……どうした?」
「あっ、ごめん。あの……」
「ああ。そういう気分じゃなかったか? 悪かった」
ハクは、拒否したうえに不審な態度の私を見ても責めたりすることはなく、いたわりの言葉をかけてくれる。
(私が悪いのにどうしてそんなに優しくしてくれるの? ハクのバカ)
八つ当たりの感情が胸をよぎるけれど、そのもやもやとした気持ちを急いで振り払う。
(今日はハクの誕生日で、彼を喜ばせるために行動することを決めたはずなのに、気を遣わせるなんて最悪じゃない)
だから、今の私にできることをやるべき。
そう決意して、振り払われたことで所在なさげになっていたハクの右手にがっと自らの手を伸ばし、ぎゅうううと握りしめる。
私の握力なんて大したことはないけれど、それでも力の強さは伝わるはずだ。
「……何だ?」
案の定、ハクは少し驚いた様子を見せ、尋ねてくる。
「えっと……今日は私から手を繋ぐって決めてたの! だからごめんね、ハクの手を避けちゃって。自分の決意が揺らいじゃいそうで……」
言いながら、私はぎゅうぎゅうとハクの手を握る。思いが伝わるように強く、強く。
「お前の気持ちは分かった。……ありがとう」
「うん……」
(ハクはやっぱり優しい)
私の伝えたい言葉をいとも簡単にすくいあげてくれる。
そんなことを考えながら、彼を見上げるとハクは優しい笑みを返してくれた。
(ハクは気づいているのかな。どうして私がこんなことをしたか、だなんてこと)
「ハク。あのね……どうして私が、自分から手を握ろうと思ったのかわかる?」
海底トンネルの終着点に着いた後、手を繋いで水族館の展示を見ながら問いかける。
その答えがすぐに思いつかないのか、ハクは考える様子を見せる。
数十秒ほどの時間が経ったあと、首を横に振った。
「いや。……悪い。何か意味があったのか? 俺は嬉しいけれど」
「実は、はじめてなの。私から手を繋いだの」
「……え? そうなのか? でも、いつも……?」
戸惑った声音に、私は握った手に力を少しだけこめた。筋張っていて厚みのあるこの人の手は私の手にすっと馴染む。
「いつもはハクから手を差し出してくれたから。それがいつも嬉しかったんだ」
彼がくれた言葉も、彼が差し出してくれた手のぬくもりも、どれもくすぐったくて、心が甘く疼いて。
でも、受け取ってばかりの私だから、どうしたらこの気持ちが伝えられるのか考えて。
「だから、ハクに私が嬉しいって思っている気持ちが届くといいなと思って」
その言葉の返事はなかった。けれど、ハクが私から顔をそらし、空いた片手で頬に手をあてている。
(あ、耳……赤い)
「悪い……そうだったのか。まずい……な。意識したら照れてきた」
「う、うん……」
(思った以上に効果があったみたい?)
喜んでくれているのは嬉しいけれど、そこまでとは思わなかった。
思い切ってよかったけれど……私まで照れが伝染してきた。
「その……あまりに久しぶりだったんだ。こういうの」
「うん? それって、前の彼女とか……?」
思わず反射的に尋ねてしまう。けれど、その答えが予想外だったのか、ハクはさらに目を見開き、慌てて「違う」と首を横に振って否定した。
「母親とか、祖父母とかだ……。今まで忘れていたぬくもりだったから、なおさら懐かしくて……思い出したら、離れがたくなるな……」
「えっ……」
思わず、握っている手の力が強くなる。それに応えるように、ハクの手にも力がこめられた。
「誰かが、俺に喜んでもらえるために行動してくれるって、こんなに嬉しい気持ちなんだな。お前が思い出させてくれたんだ」
彼の家庭事情を詳しく知らないけれど決して順風満帆じゃないことは知っている。
でも、彼が母親や祖父母を語るときの表情はとてもやわらかで穏やかで、良い関係だったんだなってことはそれだけで察することができた。
(そんなぬくもりを忘れてしまうほど、ハクの心は擦り切れていたのかな……)
今日、この行動を起こしてよかったという気持ちと、もっと早く伝えられていればハクの心の穴を少しでも早く埋められていたのかなという後悔が胸を苛んだ。
「……私も、もっと早く勇気を出せばよかったね」
もちろん、私だってハクに気持ちを伝えている。けれど、基本的に彼が与えてくれた愛情を受け身で応えていた。
そうつぶやくとハクは「そんなことはない」と優しく言葉を返してくれた。
「こうやって誕生日をお前が祝ってくれて、この特別な日に俺に最高のプレゼントをくれる。だから今日でよかった」
曇りのない瞳で告げるハクを見て、じんわりとした暖かい感情が私の心に溢れていく。
そんなことを言ってくれるハクは、やっぱりとても優しい。
「……やっぱりハクは優しいね」
「お前が、俺に嬉しいことをしてくれるからだ。……本当にありがとう」
言いながら、ハクは私を見つめる。
薄暗い水族館で、ハクは目の前の魚たちを見ることをせず、私だけを見ていた。
その視線の熱を受けて、胸の鼓動を抑えられず、私は雰囲気を誤魔化すために目の前にいる巨大水槽の中にいる鰯の大群を大仰に指した。
「ねえ。鰯の大群、光ってて綺麗……」
「お前のほうが綺麗だ」
(これ突っ込んでいいの?)
まさか、鰯と比べて綺麗といわれる人生が私にあると思わなかった。
けれどハクは冗談で言っているわけではない表情だ。
だからツッコミを入れるのも野暮な雰囲気を感じ、素直にほめ言葉として受け取っておくことにした。
「あ、ありがとう……」
私の戸惑いながらのお礼の言葉にハクはくすりと微笑む。
そして繋いだ手を自らのほうへ引き寄せ、すっと指を絡ませた。
「ハク?」
どうしたのだろうと思い名前を呼んで尋ねるけれど返事はなく、ハクはそのまま私の手を口元へと寄せ、唇を寄せる。
「な、ななななな……」
その瞬間、私だけに聞こえる小さなリップ音が 耳に響く。
動揺して言葉を生み出せない私を見て、ハクは小さく笑い「その反応は、思った以上に良すぎるな」と、今度はもう少し私を引き寄せ頭へと口づけてきた。
(そ、外でなんてことを!?)
周りに視線を軽く走らせる。それぞれ魚や自分たちのことに夢中で私たちのことなんて誰も気にしていない。
それでも──甘い疼きが急激に胸を襲い、少し深呼吸をして胸をおさえながら彼を見つめた。
今日は私がハクをドキドキさせる日だって決めていたし、彼だってそれを喜んでくれていたのに。
ハクはそんな私の決意をあまやかに溶かしてしまう。
「悪い。気持ちが溢れた」
悪いなんて、まったく思っていない笑顔で、ハクは絡めた指をきゅっと握る。
(やっぱり、私のほうがハクの行動で喜ばされてる。……ハクに敵う気なんて一生しないよ)
私の気持ちがわかりやすく表情にでていたのだろう。
でも、それでも──今よりもうちょっとだけハクが喜んでくれることを期待して、今度は私からハクの手を引き身体を近づけその耳元で囁く。
今日はまだ、どちらも相手に告げていない言葉を、私の先制攻撃で。
「……大好き!」
「それから今日、お前に渡したいものがあったんだ」 「誕生日なのに? 私が受け取っていいの?」 「ああ。俺の誕生日と思って受け取ってくれるか?」 「うん? いいけど……封筒? 手紙? 中身は……と」 「俺の名前だけ書いた婚姻届だ。お守りとして持っていて欲しい。お前の出したいタイミングで勝手に出してくれても構わない」 「重いよ!?」 というオチがあったんですが没になりました!